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大阪高等裁判所 昭和33年(う)917号 判決

被告人 真田繁太郎

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金弐千円に処する。右罰金を完納することができないときは、金弐百円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置する。

原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

よつて、所論に鑑み、記録を調べてみると、原判決には、「本件家屋明渡執行後、本部宗三郎らが右家屋の留守番をしていたが、同人らは家屋の占有については家主の代理人であるところ、明渡を執行された被告人らは移転する家屋もないまま本件家屋の軒下にテントを張つて一時の居場所を造つていたが、この状態を見て同情した被告人の知友南里秀雄が、五月二日夜留守番の本部宗三郎と交渉の結果、留守番が翌朝家屋を退去し、被告人の入居に対する拒否を放棄し、被告人の入居を認めることに話合がついたので、被告人は五月三日朝知友に助けられて平穏に入居したものであるから、建造物侵入罪を構成しない」旨判示されている。

しかし、刑法第一三〇条の人の看守する邸宅又は建造物に侵入する罪は、その看守者の意思に反して建物内に立ち入ることによつて成立するものであるが、同条にいわゆる看守とは、看守をする者が自ら直接当該建物に所在して管理する場合は勿論、番人を置いて監視せしめ、あるいは施錠してその鍵を保管する等の方法により、現実に右建物を事実上管理支配している関係にあることをいうもので、その看守者の指揮監督の下に単に事故防止のため監視に当つている一時的留守番の如きは、その建物について管理権がなく、右建物に他人をして入居させることを許す権限がないものであるから、たとえ一時的留守番の同意を得て入居したとするも、看守者本人の意思に反することが明らかな状況であれば、本罪が成立するものと解すべきである。

これを本件についてみるに、記録を精査すると、被告人はかねて岡本登所有の本件家屋に居住し、家主より右家屋の明渡を要求されていたが、昭和三二年四月三〇日家主の委任により執行吏において執行力ある調停調書の正本に基き本件家屋の明渡を執行し、空家となつた右家屋を家主の代理人である武内正敏(同人は岡本登の代理人中村弁護士より本件家屋明渡事件について代理を委任されていたもの)に対し引渡したので、武内は岡本登の代理人として本件家屋を看守することとなり、マジツクインキで、事件番号、引渡完了、他人の出入を禁ずる旨記載し、保管人武内と書いた告示書を掲示し、さらに被告人や被告人の妻に対し、口頭で、出入を禁止する旨注意を与え、火災、盗難等の事故防止のため留守番として執行手伝人夫の山下、相川の両名を置いたところ、右両名が被告人に同情する数名の者に押しかけられて脅迫的なことを言われたので、留守番をするのを嫌い、結局四月三〇日午後三時頃から本部宗三郎及び八矢某の二名が代つて留守番を引受けるに至つたもので、従つて本件家屋の看守者は武内正敏で、本部宗三郎は右看守者たる武内正敏に頼まれて事故防止のため一時的留守番をしているに過ぎず、右家屋に被告人の入居を認めるような権限は全然ないものと認めるのが相当である。しかも、本件家屋の(家主である岡本登は勿論のこと)現実の看守者である武内正敏において、本件家屋明渡執行後、執行の相手方たる被告人をして右家屋に入居させる意思がないことは、本件家屋明渡執行の経緯に照らし、常識上容易に推測せられるところであり、且つ、証人南里秀雄の当審公判廷における証言として、「留守番の本部の顔が立つようにするには、多数の人達の威圧を感じて仕方なく出たようにしないといかんと考えて、そのように本部に交渉した」旨供述している点をも考え合わせると、留守番の本部宗三郎が被告人の入居を認めることは前記武内の意思に反する背任的な行為であることを被告人及び南里らにおいて十分認識していたものと認められるから、たとえ、被告人が留守番の本部宗三郎の同意を得て入居したとするも、邸宅侵入罪の成立を免れないものであり、従つて原判決はこの点において法律の解釈を誤つたものといわねばならぬ。

しかも、果して原判決認定の如く、留守番の本部宗三郎が被告人の入居に同意したか否かについて検討するに、証人本部宗三郎、武内正敏、西口栄三郎の原審及び当審における各証言を総合すれば、

一、本部宗三郎が本件家屋において留守番をしていると、五月二日午後九時頃被告人に応援する二、三十名の者が集つて来て、そのうちの山本敬一や南里秀雄らから、執行は不当であるから家を明けて被告人を入れてやるよう執拗に要求されたけれども、これに応ぜず、対策を考えた結果、翌日の五月三日が休日であることを失念し、翌朝九時半までに武内正敏や家主側に連絡の上責任者に来て貰つて後を委せようと考え、それまで何とか被告人らの侵入を食い止めたいと思い、南里らに対し、明日午前九時半に責任者に来て貰つて話をつけるから、それまで待つてくれと答えて同夜の交渉を打切つたこと。

二、本部は同夜十二時過頃寿司屋へ行く名目で外出し、大阪市阿倍野区昭和町に居る人夫仲間の西口栄三郎の処へ行き、前記の如き事情を話し、武内正敏に三日午前九時半までに本件家屋へ来てくれるよう連絡してくれと依頼して引返したところ、西口としては、武内に対する呼出電話番号を知つているだけでその住所を知らないため、五月三日午前七時頃二回程呼出電話で連絡しようとしたが連絡ができず、なおかねて同日午前八時頃西口の泊る旅館へ武内が来ることになつていたので、同時刻頃右旅館へ行つたが折悪しく落ち合えず、結局武内と全然連絡がとれず、ひいて武内を通じ弁護士らと連絡することもできなかつたこと。

三、ところが、五月三日午前九時頃被告人に応援する者二、三十名が本件家屋に押しかけて来たので、本部は九時半の約束であるからそれまで待つてくれと言つたが、同人らはこれを聞き入れず、家の中へ入つて来て被告人の荷物も入れかかり、本部らもこれを阻止することができず、待つていた武内らも来ないので、同家を退去するの已むなきに至り、引揚げる途中近鉄針中野駅で西口栄三郎と出会い、武内と連絡できなかつた事情を知り、なお同日は休日のため武内と連絡できず、翌五月四日裁判所内で武内に対し前記事情を報告したものであること。

等の事実が認められる。

尤も、この点につき、南里秀雄は原審及び当審において、五月二日午後九時頃本部宗三郎と交渉の結果、本部が、「明日の朝渡しましよう、社会党の人が来て放り出されたようにして自分は帰る。そうしないと自分の面子が立たない」と言い、結局社会党の人が沢山来て放り出された格好にしてくれとの打合せができ、翌朝本部が約束どおり出て行くと言つて退去したので、その後被告人らがみんなに手伝つて貰つて道具を入れた旨証言し、山本敬一、高貴伝三郎の原審公判廷における各供述記載、高貴伝三郎の当審公判廷における供述も概ね右南里の証言と符合する趣旨の証言をなし、本部宗三郎の原審及び当審における証言内容と相対立しているけれども、若し五月二日午後九時頃南里と本部との間に南里の証言するような話合が成立したものならば、本部が深夜わざわざ西口栄三郎の処へ行つて武内正敏らに対する連絡を依頼したこととは矛盾するところで、この点に関する西口栄三郎の当審における証言が虚偽であるものとは到底認められず、従つて前掲の南里らの証言内容は本部宗三郎、西口栄三郎の証言に比照し、たやすく措信できない。

従つて、原判決が、五月二日夜本部が南里と交渉の結果、翌朝被告人の入居することを認め、右約束に基き被告人が平穏に入居した旨認定したのは、証拠の取捨選択を誤つた結果事実を誤認したものといわねばならぬ。

要するに、原判決は法律の解釈を誤り、且つ事実を誤認したもので、その誤が判決に影響を及ぼすこと明らかであるから、原判決は破棄を免れない。

よつて原判決を破棄し、且つ原審及び当審で取り調べた証拠により直ちに判決できるものと認め、刑事訴訟法第三九七条第四〇〇条但書の規定に従い、次のとおり判決する。

罪となるべき事実

被告人はかねて岡本登所有の大阪市東住吉区鷹合町三〇七番地所在木造瓦葺二階建住宅四戸一棟の内西端の住宅一戸(被告人現住家屋と同一)に居住し、岡本よりその明渡しを要求されていたが、昭和三二年四月三〇日右岡本登の委任せる執行吏により、執行力ある調停調書正本に基き右家屋の明渡を執行され、執行吏より空家となつた右家屋を家主の代理人である武内正敏に引渡されるに至つたところ、右家屋明渡の執行を不当であるとし、同年五月三日午前九時過頃居住の目的を以て右武内正敏の看守にかかる前記邸宅に故なく侵入したものである。

証拠の標目〈省略〉

法律の適用

被告人の判示所為は刑法第一三〇条前段罰金等臨時措置法第二条第三条に該当するところ、所定刑中罰金刑を選択し、その所定金額の範囲内において、被告人を罰金二千円に処し、刑法第一八条により右罰金を完納することができないときは、金二百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、原審及び当審における訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項本文により全部被告人をして負担させることとする。

(その余の判決理由は省略する。)

(裁判官 児島謙二 畠山成伸 本間末吉)

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